アランの『幸福論第35プロポ:家庭の平和』の中に、次のような言葉があります。

不機嫌な顔をナイーブな形で見せ合えるというのは、愛を分かち合っている証拠である。
賢者はそこに、たがいの信頼と心安さの証拠を見るだろう。

家族の中では、とりわけ家族どうしが深い愛情で結ばれている時には、気がねをする者も、仮面をかぶる者もいない。

だから母親は自分の子どもの前で、自分がよい母親であることをあかししようなどとは考えない。
もし、そんなことをする場合には、子どもがどうしようもないワルだからであろう。

しっかりした子は、時にはそっけなくされることもあると覚悟してなければならない。
それこそ、まさに、しっかりした子の受け取る褒美なのである。

礼儀作法は親密なかかわりをもたない人たちのためにあり、機嫌は、上機嫌も不機嫌も、親密な者のためにある。

すなわち、家族とは唯一飾らない自分を素のまま見せることができる相手であり、上機嫌も不機嫌も愛しているからこそ、相互に受け入れられるものなんだということを言っているわけです。

はたして、あなたのご家庭では如何でしょうか?

また、アランは

一般に情念は目につき、愛情は見えにくい。
そしてこのことは、親密であればあるほど、いっそう避けがたい。
これを理解しない人間は、間違いなく不幸なのだ。

とも記しています。

アラン 幸福論

何とも荒っぽい主張に見えますが、母親にとっては力強い応援歌のような響きがあります。

まさに、「あなたのことを思えばこそ言っているんじゃない!」という母親としての叫びを代弁してくれているかのようです。

そうは言いながらも、あなたもお子さんに対するときに、自分の機嫌や気分で接する場面はよくあることではないでしょうか?

どこかで自分の機嫌や気分を「あなたのことを思えばこそ言っているんじゃない!」とすり替えている時はないでしょうか?

そんなとき、果たしてお子さんはあなたの不機嫌を寛大に受け入れているのでしょうか?

もし受け入れていないとすれば、そのことを理解しない子どもの覚悟不足を『悪』として処理すればいいのでしょうか?

あなたはお子さんを間違いなく愛しています。
お子さんもあなたを間違いなく慕っています。
そう言えるほどに信頼関係が出来ているのでしょうか?

いつの間にか溝が深くなってしまっていることに気付いたりして、今愚痴をこぼしているあなたは如何でしょうか?

アランは、このあと、実にアランらしい心眼をもって見事などんでん返しを用意します。

ぶったり、ののしったり、非難するのは、いつも最初の動きである。
このように信頼関係が行きすぎると、家族は崩壊する。

一つの動きが他の動きを排除する。
友情の手を差しのべる時には、拳骨は排除されている。

最初の動作がどんなに危険なものかを知っている人間は、自分のしぐさに規律を与え、こうして自分の愛着する感情を保つ。

『第36プロポ:私生活について』では、次のように語ります。

だれでもみんな、商売のため、職業のためだったら、大いに努力をする。
ところが、ふつう自分の家に帰って幸せであるためには何もしないものだ。

ここで、深く自分を顧み、周囲の人々のふるまいをも顧みてみると、如何に、人というものは、最初に取ってしまった行動に制約を受けて生きているかということに嘆息せずにはいられない思いがします。

人は、最初に取った行動をしばらく後で内心「しまった!」と後悔しても、取ってしまった行動の理屈付けに躍起になるものではないでしょうか?

決して、あの時取るべきだったと思った行動に、今さらは修正しようとしないものです。
たとえ、それが極めて合理的であり人間的であったと思ってもです・・・。

「引っ込みがつかない」「ばつが悪い」という美学が支配し、その行動をとった自分を正当化できるような道を選んでしまうのでしょう。
「引っ込みがつかない」から、「ばつが悪くない」程度に減速したり注意を他に反らしたりしながら、そのことが忘れ去られることを待つ生き物に見えます。

最初の動作がどんなに危険なものかは、私もまさに感じ入るところです。
最初に怒ってしまうと、流れ上、ずっと怒った気持ちでいかざるを得ないことは誰もが経験のある心情ではないでしょうか?

しかし、最初に怒ってしまう前に、冷静に穏やかな言葉で対応してしまえば、今度はその穏やかさの延長上で行動せざるを得ません。

アランがこういうことを書いていたとは思い出しもしませんでしたが、30歳の半ば頃に、最初のふるまいがそれ以降の言動を支配することに気付いてから、妻に腹を立てることはもちろん妻と喧嘩をすることすら皆無になりました。

まさに、『友情の手を差しのべる時には、拳骨は排除されている。』だったということなのでしょう。

そして今、『やる気』と同じく、
脳が肉体運動を支配するのではなく、肉体運動が脳を支配している
ということを示唆し、如実に表す現象として認識されてきます。

一番大切なことは、最初の一歩・一言動を正しく踏み出すことではないかということです。
過って踏み出すと、人間の業・煩悩に打ち勝って正しい道に引き帰すこともままならなくなります。

もっと言うと、人間社会の争い事も、実のところはイデオロギーや理念や価値観に元凶があるわけではなく、「引っ込みがつかない」「ばつが悪い」に端を発する意地の張り合い・凌ぎ合いといった、あまりにも始原的な部分にその芽があるのではないかとすら思えます。

悪事で生きて来た人々や自己中心主義で生きてきた人々も、それで生きてきた以上、それを否定することは生きてきた証、即ちプライドを捨てるようなものですから、最初の一歩の間違いも『正しいこと』として理屈付けされなければなりません。

こうして、社会の不幸はいつまでも絶えることなく生み続けられるのでしょう。

今、個人にも社会にも最も必要なものは、間違えた方向に踏み出したら早いうちに連れ戻し、「引っ込みがつかない」「ばつが悪い」にこだわるよりも、病んだ心をやり直す方向に導くことのできるお医者さんなのかもしれません。

アランの『幸福論』は学生の頃には、文芸的であまり理解もできず、面白くもなく、ラッセルと比較するとついつい軽蔑するような気持ちもあり、あまり意識になかったのですが、歳を経て読むと妙に味わいのある内容だったのだとしみじみ感じます。