ノミの無残/虫のいろいろ

『ノミのサーカス』という言葉をご存知の方ももう少ないのではないかと思います。

かく言う僕も、幼いときから言葉は知ってはいるものの、実際の曲芸を見た記憶はありません。

まぁ、実際に見たことがある方はもうほとんど居られないのではないでしょうか?

そう思って調べますと、ほんの数例ですがナント映像として公開されていました。(海外)


ノミのサーカスを映した貴重な映像 投稿者 samthavasa

さて、実際の曲芸はマジックみたいなカラクリがあるのでしょうが、考えてみれば、実際にノミが登場することだけですごいことですよね。

何故なら、どこに跳んでいくか分からないようなノミを曲芸をしているように見せるためにじっとさせておくだけでも普通は出来ないことですから。

暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇

実は、じっとさせておくだけのことが偉大なる芸なんですけれども、これでは見せ物にならないので、何やら曲芸をしているように見せるショー仕立てで仕上げるというわけです。

では、どうやってそのように仕込むのか?

『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞された故 尾崎一雄氏『虫のいろいろ』というエッセイで書かれています。

どちらの著作もすでに中古本でしかないと思うのですが、その内容が貧乏生活をユーモアたっぷりに語るなどの気さくさ故、肩肘張らずに気楽にしかも楽しく読めます。

なのに、実は非常に味わい深い洞見ができる名著ではないかと僕は思っています。
お時間があれば一度読まれてみても損はないと思います。

さて、ノミの仕込みですが、『虫のいろいろ』では次のように書かれています。

出典:虫のいろいろ / 尾崎一雄

のみをつかまえて、小さな丸いガラス玉に入れる。
彼は得意の脚で跳ね回る。
だが、周囲は鉄壁だ。

散々跳ねた末、もしかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。

試しにまた一つ跳ねてみる。
やっぱりむだだ、彼は諦めておとなしくなる。

すると仕込手である人間が外から彼を脅かす。

本能的に彼は跳ねる。

だめだ、逃げられない。

人間がまた脅かす、跳ねる、むだだというのみの自覚。

この繰り返しで、のみはどんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。

そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる。



「実際ひどい話だ。どうしてもだめか、判った、という時ののみの絶望感というものは、想像がつくというのかつかぬというのか、ちょっと同情に値する。
しかし、頭かくして尻かくさずという、元来どうも彼は馬鹿者らしいから・・・それにしても、もう一度跳ねてみたらどうかね、たった一度でいい」



尾崎一雄氏は、この曲芸ノミの話を「随分と無残な話であると思った。」と記しています。

「ノミにすれば、疑問以前の行動を、一朝にして、われ過てり、と痛感せねばならない。
これほど無残な理不尽さは少なかろう。」
と…。

このノミのお話は、子育ての教訓としてもよく使われることはご存知の方も多いかもしれません。

意識的にせよ無意識的にせよ、親が作ったガラス玉の中に子どもを閉じこめておくことは子どもを伸ばしませんよといういう意味でよく使われます。

その他に、純粋な学習面においても、一生懸命勉強しているのに一向にそれが報われないというようなケースにおいても、閉じこめられるガラス玉は他者によって与えられたものではないという相違はあれども、結果的に諦め・絶望感へと行き着いてしまう悲しさは、ノミの無残さと同種ではないかと僕は思ったりしています。

このような教育的な側面については、ここでは端折りますが、人間関係・集団の中での私たち、ひいては社会の中での私たちを考えると、あらゆる場面でノミの無残さの危険を多かれ少なかれ背負って私たちは生活していると言っても過言ではないように思われます。

もし、私を束縛するガラス玉の障害が、私を含め全体の益に繋がっていることが確かであれば、それは「無残」でもなく「無念」でもなくむしろ「歓喜」に昇華されることを私たちは知っています。

しかし、このノミのように、本来持っている本能や習性というものを完膚なきまでに抹殺され、人間の商売の価値としてのためだけに仕立て上げられたとしたらどうでしょうか?

最後の跳躍を終えた当のノミにとっては、「無残」「無念」を通り越した単なる「麻痺」しか残らないのではないでしょうか?

「無残」と映るのは、まさにノミがノミでなくなったそのことなのではないでしょうか?

僕はオスの犬を飼っていますが、小さいときに去勢手術をしました。
何かのサービスを受けたい時や何かの事故が起こってはいけないという思いからでしたが、それでも今さらながら後ろめたさが付きまといます。

本来、生き物としてはあるべきものを奪ったという思いがあり、おそらく一生「すまなかった」という思いが消えることはないと思います。

もし、私たちが、本来持っている本能や要求というものを完膚なきまでに削ぎ取られ、仕込み手の欲望や身勝手に従順に奉仕するだけのために仕立て上げられたとすればどうでしょうか?

自分の周囲の人間関係や帰属集団、もっと大きく今の日本の社会全体を見渡し、
自分が他者に対し理不尽なガラス玉をあてがってはいないだろうか?
自分は他者や社会からあてがわれたガラス玉によって、感覚が麻痺してはいないだろうか?

そう、
私たち自身がノミ化してはいけない!
私たち自身がノミの仕込み手になってはいけない!

そんなことをつらつらと考えてみるところから、幸せというものも少し近くに見えて来るのではないかと思えます。

最後に、『虫のいろいろ』のこのノミのお話の部分で、著者の友人の話として、「何とか蜂は力学的には飛行することが不可能なんだけれども、実際には彼は飛んでいる。つまり、彼は自分が飛べないことを知らないから飛べているんだ」という話が挿入されています。

流体力学は僕の専門の一分野でもあるのですが、この本を読んでこの方、この時代にもうそんなことはあり得ないだろうと、まだ一度も精査したことがないことに気付きました。

かと言ってオカルトに走られるとちょっと眉をひそめたくなりますが、まぁ、科学技術を過信することへの戒めを読み取るのであれば、それは大切なことだと考えます。

ともかくも、嫌味が無く面白いエッセイに拍手です。